この記事の目次
- 神聖な大祭司としてのキリストの務めの下で召会生活を実行する
- アウトラインの内容
- Ⅰ. キリストは不朽の命で構成された神聖な大祭司です
- A. キリストが神聖な大祭司として構成されたのは、何ものにも破壊することのできない不朽の命の力にしたがってでした。
- B. 不朽の命は、終わりのない命であり、永遠で、神聖な、非受造の命、死とハデスのテストを通過した復活の命です。
- C. わたしたちは死と死の結果、副産物のゆえに、キリストの神聖な祭司職を必要とします:
- 1. 聖書における死の最も広い定義によれば、死は空虚、腐敗、ため息、うめき、衰退を含みます。
- 2. 死の結果のゆえに、わたしたちは神聖な祭司職を必要とします。神聖な祭司職は命をもたらし、氏を排除します。
- 3. わたしたちは、死の副産物を減少させ、飲み尽くしさえする神聖な祭司職に明日狩ることができます。
- 4. わたしたちは、神聖な大祭司、手順を経た方によってわたしたちの中へと供給されつつあるキリストを享受しているとき、死を征服し(ヘブル2:14)、死のすべての結果を減少させ、取り除き、飲み尽くす神聖な祭司職にあずかります。
- Ⅱ. ヘブル第13章1節は、召会生活の実行のために必要とされる美徳と経験について語っています:
- A. 本章はその内容によって示されているように、正しい召会生活の観点から書かれました。兄弟愛や旅人をもてなすことなど、ここで述べられているのほとんどすべてのことは、召会生活ののためであって、クリスチャン生活のためだけではりません。
- B. わたしたちは、真の、堅固な召会生活のために、昨日も今日も、永遠に同じであるキリストを保持しなければならず、さまざまな異様な教えによって迷わされてはなりません。
- C. わたしたちは霊の中にいて、天のキリストを享受すればするほど、ますます宗教営所の外に出て、苦難を受けたイエスに従って行きます。
- 1. 召会は神の幕屋、あるいは宮です。
- 2. 営所は、主に忠信でない一組の人々、特に宗教的な人々を表徴します。
- 3. この現在の時代に、キリスト教は天幕ではなく営所です:
- a. これは、召会が堕落してキリスト教になったことを意味します。
- b. 原則において、宗教組織としてのキリスト教は、一組の宗教的な人々を構成します。彼らは名において主に属しており、彼らの口では主を尊びますが、彼らの心を主以外のものに置いています。
- 4. 召会の歴史によれば、真に主を追い求める者たちは、組織化されたキリスト教を離れなければなりません。すなわち、営所を離れ、営所の外に出て、主に行かなければなりません。
- D. わたしたちは召会生活において変わることのないキリストを恵みとして享受し、宗教の外に出て彼に従って行くので、彼を通して賛美の霊のいけにえを神にささげるべきです。
- 1. わたしたちは召会生活においてキリストを通して、絶えず賛美のいけにえを神にささげるべきです。
- 2. 召会において、キリストはわたしたちの中で賛美の歌を父なる神に歌います(2:12)。またわたしたちも召会において彼を通して父なる神を賛美すべきです。
- 3. 最終的に、召会において、彼とわたしたち、わたしたちと彼は、ミングリングされた霊の中で共に御父を賛美します。
- a. 彼は、命を与える霊として、わたしたちの霊の中で御父を賛美し、わたしたちは、わたしたちの霊によって、彼の霊の中で御父を賛美します。
- b. これが、わたしたちがこなるキリストを通して神にささげることができる最高のいけにえです。
- c. このことは召会の集会において大いに必要とされます。
全国特別集会関連の集まり:
集会1|集会2|集会3|集会4|集会5|中高生ブレンディング|訓練卒業生集会
メッセージ5の概要
タイトル:神聖な大祭司としてのキリストの務めの下で召会生活を実行する
日程:2017年5日 主日 10:00〜
メッセンジャー:RK|通訳:MK|記録者:TN
*このメッセージに関しては、95%ノートが取れています。
神聖な大祭司としてのキリストの務めの下で召会生活を実行する
オープニング
わたしたちが召会生活に関して理解しなければならない重要なことがあります。召会生活は神のエコノミーを遂行するための団体的な生活を指しています。このような生活は人間にとって不可能です。人は宗教的なグループを作り、教会と呼び、人間的な力で行うことができるだけです。召会生活は神性と人性のミングリングを必要とします。わたしたちは天然の堕落した性質で召会生活を送ることはできません。
言い換えれば、わたしたちは自己な中では召会生活を送ることはできません。キリストと共に、キリストを通して、キリストによってのみ召会生活を送ることができます。キリストでないものはすべて召会ではありません。召会はキリストのからだです。わたしたちはキリストから離れて召会生活を持つことはできません。わたしたちはキリストを全体的な方法で必要とします。
一方、わたしたちはキリストを、内側に住み、心の中にホームを作る方として持ちます。食卓のパンはキリストの体を表徴しました。わたしたちはみな一かけら食べました。わたしたちの内側のキリストだけが召会であるということです。まずキリストに内側に生きて頂いて、ホームを作って頂き、大きく表現して頂く必要があります。内住のキリストに関して、ヘブル13章に記述があります。
平和の神、すなわち、永遠の契約の血による羊の大牧者であるわたしたちの主イエスを死人の中から引き上げた方、ご自身の目に喜ばれることを、イエス・キリストを通してわたしたちの中で行い、みこころを行うために、あらゆる良いわざをもって、あなたがたを成就してくださいますように.その方に、栄光が永遠にわたってありますように。アーメン。(20〜21節)
21節によれば、キリストはわたしたちの中で何かを行なっています。彼はみこころを行うことによってわたしたちを成就しています。神はご自身のみこころが地上で行われることを願っています。わたしたちが神のみこころを行うために、神はご自身の目に喜ばれることをわたしたちの中で行なっています。これが示しているのは、神が彼ご自身が喜ばれることを、私たちの中で行う機会を求めていることです。神はイエス・キリストを通してわたしたちの中でこのことを行われます。
神の目に喜ばれることはなんでしょうか?このことははっきりしています:
これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ。(マタイ3:17)
神はわたしたちに彼のみこころを行って欲しいのです。このために、彼はわたしたちの中で何かを行なっています。それは彼の目に喜ばれることです。非常に悲しい事実というのは、多くの兄弟姉妹が召会生活の中にいながら主に開いていないことです。神がこれらの兄弟姉妹の中で何かを行うことは非常に困難です。それ以外に、単純な心を持って主に来て、全存在を開いて、「主よ、あなたご自身を作り込んでください」と祈る人もいます。さらにある人たちは前進して、「主よ、このことを召会のために行なってください」と祈ります。
召会生活をを実行するためには、内住のキリストに対して主観的な経験を必要とします。わたしたちはまた、天のキリストを必要とします。わたしたちは第3の点におられるキリストをも必要とします。これは昇天したキリストです。御座に着かれたキリストです。ヘブル書において啓示されているキリストです。キリストは罪の捧げものとなり、昇天され、神の右に座しておられます。わたしたちの主は宇宙で最高の地位を持っています。彼は万物の主です。彼はわたしたちの大祭司です。羊の大牧者です。天の奉仕者です。わたしたちのために祈り、供給しておられます。彼が天の務めで行っていることは、その霊を通して伝達されます。わたしたちの霊の中のキリスト、昇天のキリストによって、わたしたちは召会生活を持つことができます。これはわたしたちが命の中で成長するにつれて、少しずつ学んでいく事柄です。
パンさき集会の最中、あることのためにとりなす負担を受けました。ある重要な事柄を考えていました。わたしたちが主を記念していた時に、ある事柄を主にもたらしました。「わたしたちが砕かれることはどういうことか」についてでした。それは、わたしたちは何においてももはや自分を信頼しないことです。主は言いました:「わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできない」(ヨハネ15:5)。彼なしに召会生活を持とうとするのは彼に対してなんという侮辱でしょうか。
この特別集会の主題は『キリストの天の務めの下で召会生活を実行する』ことです。この主要な負担というのは、わたしたちが召会生活を実行するためには、キリストの天の務めを常に必要としていることです。これはわたしたちにとて、わたしを含めて、新しい思想です。わたしたちはキリストを必要とすることに関して少し理解はあると思います。彼を食べ飲み呼吸します。主の恵みを必要とします。しかし、それ以上に、わたしたちは天の務めにおけるキリストを必要とします。わたしたちの中のキリストは、昇天の中で務めを遂行しているキリストでもあります。主があなたがたのために祈っている時、あなたがたを牧養している時、彼はあなたに何かを経験して欲しいのです。だからあなたのために祈っているのです。あなたがこのことを知らなくても彼は批判しません。この務めはあなたの霊の中へと伝達します。そしてミングリングされた霊の中でわたしたちは反応します。内住のキリストが昇天のキリストをわたしたちの中で生かし出します。
このことをあなたがたに分け与えるのはわたしの責任です。しかし実際の霊だけが、このことがらをあたながたに実際化することができます。1975年、わたしたちはアナハイムである台湾からの年長の同労者と交わりました。わたしたちは42年後の今も覚えています。彼は祈りの中でこのように語りました「主よ、わたしはあなたなしには生きることはできません」。それは非常にリアルで誠実でした。主はわたしたち全員をこのような至るまで牧養します。このような誠実な告白が必要です。「主よ、あなたなしに生きることができません。あなたなしにクリスチャンでいることができません。あなたなしに召会生活を送ることはできません」。
わたしは今原則を語っています。全世界の同労者は真っ先にこの事柄を認識するべきです。聖徒たちが彼らの供給や交わりを受ける時、彼らはこの兄弟は自分に信頼していないという感覚をもっているべきです。この兄弟が肉に信頼していないという感覚を持つべきです。ピリピ3章はパウロの状態です:
…わたしたちこそ割礼の者であり、…肉を頼みとしていないからです.(ピリピ3:3)
もはや自分の意見に信頼しない時が来なければいけません。もちろん彼らに感覚があります。しかしそれに信頼しません。
姉妹たちが自分の感覚に信頼しない時が来る必要がありです。感覚をたくさん持つことは自然なことですが、しかしどうしてそれを信じるのでしょうか?主を信じることと自分を信頼しないことは同時進行です。このような大きな必要があります。わたしたちの神はアブラハムの神・御父であるだけでなく、イサクの神・御子だけでもなく、ヤコブの神・霊なる神でもあります。
パウロがヘブル書を書いていた時に、非常に困難な状態にありました。パウロは12章で『御父の取り扱い』(5〜13節)について語りました。そして真の神の子たちは御父の取り扱いを経験します。パウロは言いました:
どの取り扱いも、その時は喜ばしいこととは思われず、…しかし後になると…平安の義の実を結ばせます。(11節)
ですので、この語りかけは、聖霊によって促されたものと思いますが、メッセージ5に入るために適切な雰囲気に作ってくれたと思います。
わたしたち自分を主にささげて、このことを実行しようとしているのです。しかし、わたしたちは神聖な大祭司としてのキリストの務めの下でのみ、召会生活をを実行できることを見る必要があります。
キリストの祭司職に三つの面があります。
(1)彼が十字架上でささげ物として自らささげました。わたしたちのためにささげ物となられました。彼はわたしたちの贖いのためにご自身をささげました。これはアロンの祭司職の実際です。アロンとその子供たちはこの事柄の予表でした。
(2)今彼は天の務めの中で王なる祭司職を持っています。彼はメルキゼデクの位による大祭司です。メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってアブラハムに来ました。キリストはパンとぶどう酒をわたしたちを供給しました。彼は今もここでパンとぶどう酒を持っています。
(3)彼はまた第三の面の祭司職をも持っています。彼は神聖な大祭司です。彼の神性は彼を神聖な大祭司として資格付けました。これが、わたしたちが神聖な大祭司としてのキリストについて見るべきことです。彼は不朽の命を持っています。永遠の、非受造の命を持っています。彼はこの壊されえない命で構成されています。主が十字架上で最後の息を引き取って死なれました。兵卒が来て十字架に掛けられた者たちの足を折ろうとした。しかし主はすでに死んでいたので、兵卒は彼を足を折りませんでした。これは旧約の予言の成就でした:「彼の骨は一つも砕かれない。」骨は壊されえない永遠の命を表徴しています。それは死を経過するが、死はそれに触れることはできません。
わたしがいつも触れられる事柄があります。アロンは長年にわたって大祭司でした。主は言いました、アロンよ、あなたは死ななければいけない。それはモーセが過ちを犯して良き地に入れなかったようにです。祭司の衣はアロンから脱がされて息子に着せられた。その後息子は死に、その息子がまた死にました。その祭司職は死に耐えることはできませんでした。地上のすべての人が死の影響に苦しんでいます。しかし、わたしたちに決して死なない大祭司がいます。彼は弱ることがありません。彼に不朽の命を持っています。死に関する事柄すべてを打ち破ります。神は召会が彼の家であることを知っています。わたしたちはみな神の子供たちです。彼は生ける神なので、生き生きとした召会生活を望んでいます。わたしたちは死の攻撃に耐えることはできません。しかし主は死に触れられることなく死を経過しました。この壊されえない命は彼を神聖な大祭司とならせました。
彼は命を与える霊です。あなたが命を持つように、彼は祈っています。キリストは命を与える霊としてわたしたちに命を与えたいのです。あなたは命のために働く必要はなく、キリストはあなたに命を与えます。キリストは命を与える霊です。
アウトラインの内容
それではアウトラインを読んで、最初の区分を理解しましょう。
Ⅰ. キリストは不朽の命で構成された神聖な大祭司です
A. キリストが神聖な大祭司として構成されたのは、何ものにも破壊することのできない不朽の命の力にしたがってでした。
この明確な事実を知る必要があります。なぜなら罪が人の中へと入ったからです。罪の結果は死です。すべての人は死にます。信者も未信者も死にます。例外は信者で生きたまま携え上げられる人です。
しかし、わたしたちの愛する人が死を経過しなければいけない時、どうでしょうか?わたしはリー兄弟が召される前にベッドサイドに訪問しました。彼の朽ちる体の中には朽ちない命が入っていました。
B. 不朽の命は、終わりのない命であり、永遠で、神聖な、非受造の命、死とハデスのテストを通過した復活の命です。
C. わたしたちは死と死の結果、副産物のゆえに、キリストの神聖な祭司職を必要とします:
1. 聖書における死の最も広い定義によれば、死は空虚、腐敗、ため息、うめき、衰退を含みます。
ある時、わたしたちのできることはただこれだけです。「はあ…」。これはため息です。なんと言って言えばいいかわかりません。どのように祈り、どのように考えればいいかさえわかりません。そのため息は死の表現です。主は知っています。主は批判しません。主は「あなたは、ため息を飲み尽くすわたしの命を必要としています。今あなたのため息を歌へと変えます。」
2. 死の結果のゆえに、わたしたちは神聖な祭司職を必要とします。神聖な祭司職は命をもたらし、氏を排除します。
第3の点は良い知らせです:
3. わたしたちは、死の副産物を減少させ、飲み尽くしさえする神聖な祭司職に明日狩ることができます。
まず、わたしたちは祭司職の益に預かります。そして死を減少させる不朽の命を受けます。そして、非常に心地よい方法でこの命を互いに供給し合います。
4. わたしたちは、神聖な大祭司、手順を経た方によってわたしたちの中へと供給されつつあるキリストを享受しているとき、死を征服し(ヘブル2:14)、死のすべての結果を減少させ、取り除き、飲み尽くす神聖な祭司職にあずかります。
憂鬱感は死の形であなたの魂をひどく苦しみます。その原因の性質は霊的であり、答えの性質も霊的です。死はあなたを落ち込ませようとします。しかし、不朽の命はあなたを救います。わたしたちは死ぬべき体に生きているので、肉の体に関して間違ったことをして苦しむことは、性質において霊的ではありません。それは人間的な方法で取り扱う必要がります。しかし魂が敵の攻撃によって落ち込む時、わたしたちは神聖な大祭司が必要です。
Ⅱ. ヘブル第13章1節は、召会生活の実行のために必要とされる美徳と経験について語っています:
ヘブル12章で、パウロは「なぜなら、わたしたちの神は焼き尽くす火でもあるからです」(29節)と言います。それはまるでシンフォニーのようです。指揮者がフィナーレの時に導いているようにです。トランペットが鳴り響き、ドラムも鳴り響き、そして一瞬のうち、すべての楽器が静かになり、パウロは、「兄弟愛を持ち続けなさい」と言います(ヘブル13:1)。それはまるで5000フィートから急に地上に降りてくるようです。パウロの目標はいつも地上の召会生活でした。
3節で、監禁されている人たちについて話しています。
4節で、結婚の事柄に方向転換します。若い兄弟たちをこれを学ぶ必要があります。妻に何かを言う時、小さな小石を池に投げ入れるだけだと思っています。しかし彼女にとっては大きな岩のようです。なぜこのようなのか、わたしにはわかりませんが、それはそのようです。
5節で、お金について話しています。主があなたを金銭を愛する心から解放してくださっている確信はあるのでしょうか?何年も前に主はこのことを暴露してくださいました。迫害を受けていた信者たちは恐らく豊かだったでしょう。確信はありませんが、例えば、「あなたがクリスチャンになるならこの家族の一員ではなくなる。相続させない。」と言われたかもしれません。
7節で、導いている人に対する態度に関してです。「あなたがたを導き…」
ここで召会生活を見ないでしょうか?
12章は天で終わっています。キリストは神の右に座っています。栄光と冠を受けています。先駆者は幕内に入っています。彼は天の奉仕者です。新契約の仲保者です。そしてシオンの山、生ける神の都、 天の神の御前、驚くべき素晴らしい光景です。
そして今、「お金を愛してはいけない、妻を愛しなさい、導いている人に従いなさい」と言います。これは天のビジョンの下で生かし出される召会生活です。ローマ数字Ⅱ. で書かれているように、ヘブル13章1〜19節は、召会生活の実行のために必要とされる美徳と経験について語っています:
そして、
A. 本章はその内容によって示されているように、正しい召会生活の観点から書かれました。兄弟愛や旅人をもてなすことなど、ここで述べられているのほとんどすべてのことは、召会生活ののためであって、クリスチャン生活のためだけではりません。
B. わたしたちは、真の、堅固な召会生活のために、昨日も今日も、永遠に同じであるキリストを保持しなければならず、さまざまな異様な教えによって迷わされてはなりません。
次の区分でパウロは、どうしてわたしたちがユダヤ教を離れなければいけないかを言っています:
C. わたしたちは霊の中にいて、天のキリストを享受すればするほど、ますます宗教営所の外に出て、苦難を受けたイエスに従って行きます。
パウロは言いました:
ですから、わたしたちは彼のそしりを担い、営所の外に出て、彼へと行こうではありませんか。 (13節)
パウロは尋ねました、イエスとユダヤ教、どっちが欲しいのか?その霊の至聖所に行きたいのであれば営所の外に出る必要があります。
1. 召会は神の幕屋、あるいは宮です。
2. 営所は、主に忠信でない一組の人々、特に宗教的な人々を表徴します。
3. この現在の時代に、キリスト教は天幕ではなく営所です:
a. これは、召会が堕落してキリスト教になったことを意味します。
b. 原則において、宗教組織としてのキリスト教は、一組の宗教的な人々を構成します。彼らは名において主に属しており、彼らの口では主を尊びますが、彼らの心を主以外のものに置いています。
1966年の6月に、わたしは営所の外に出て行くことを決定しました。多くの考慮と研究の結果、もはやキリスト教の中にとどまることができないと思いました。わたしは最後の説教をヘブル13章に基づいて彼らに語り、わたしは営所の外に出ると告げました。わたしと妻と子供は小さな車に乗ってニューヨークからカリフォルニアに行き、この時代の務めに会いました。約51年前のことです。わたしは一度も振り返ったことはありません。
4. 召会の歴史によれば、真に主を追い求める者たちは、組織化されたキリスト教を離れなければなりません。すなわち、営所を離れ、営所の外に出て、主に行かなければなりません。
D. わたしたちは召会生活において変わることのないキリストを恵みとして享受し、宗教の外に出て彼に従って行くので、彼を通して賛美の霊のいけにえを神にささげるべきです。
ヘブル13章15節は言います:
ですから、彼を通して、絶えず賛美のいけにえ、すなわち、御名を言い表す唇の実を、神にささげようではありません。
1. わたしたちは召会生活においてキリストを通して、絶えず賛美のいけにえを神にささげるべきです。
2. 召会において、キリストはわたしたちの中で賛美の歌を父なる神に歌います(2:12)。またわたしたちも召会において彼を通して父なる神を賛美すべきです。
3. 最終的に、召会において、彼とわたしたち、わたしたちと彼は、ミングリングされた霊の中で共に御父を賛美します。
a. 彼は、命を与える霊として、わたしたちの霊の中で御父を賛美し、わたしたちは、わたしたちの霊によって、彼の霊の中で御父を賛美します。
b. これが、わたしたちがこなるキリストを通して神にささげることができる最高のいけにえです。
c. このことは召会の集会において大いに必要とされます。
彼の天の務めのゆえに賛美します。この瞬間でも彼は彼の不朽の命を私たちの存在の中に分与しています。この命の中で、わたしたちは素晴らしく栄光に満ちた、享受にあふれた召会生活を送ることができます。
今日から主にお会いする前、あるいは主が彼が来るまで、わたしたちはキリストの天の務めの下で召会生活を送ることができますように。
以上。
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